2025年8月30日土曜日

1 姉の涙

英語のブログに少しづつ日本語で書いていましたけれど、ここのブログでは、全部最初から日本語で書くと同時に、そのものをここに載せることにします。ということで、既に読んでいるものも時々見るかもしれません!今日の話は、前のブログに載せた「姉の涙」というものです。自分が生まれた時の話です。

*~~~*~~~*


私が生まれたとき、姉が私のために涙を流してくれたと聞いています。

姉が生まれた数か月後、母はチフスのために入院し、次の年も、また病院に行きました。「心配しなくてもいいの。マミー(ママ)は病気じゃないから。今度帰って来るとき、特別なお土産を持ってくるからね。」

その日、ドアによちよち歩いていくと、ダディー(パパ)とマミーは、玄関に立って、2人ともとっても嬉しそう。だけど、家で楽しく待っていた娘より、マミーの持っている小さいものを見て笑っているのです。あれ・・・

その小さいものを「智子」と呼んでいました。そしてその「智子」をベビーベッドに寝かせたのです。

「これが、おみやげ?」と里子ちゃんは思いました。「この赤ちゃんに、ダディーも、マミーも、ベッドも、うばわれてしまった・・・」親が部屋に帰って来たとき、里子ちゃんのほっぺに涙がポロポロ流れています。

あら、あら、あら。

マミーは、すぐ里子ちゃんに話しかけました。

「ねえ、かわいいでしょう。里子の新しい妹なのよ。まだまだ小さい赤ちゃんだから、う~んと愛してあげないと。里子はいいおねえさんになってあげられるでしょう。」

ベッドに寝ている小さな赤ちゃんが、里子ちゃんの目に、かわいくなってきて、涙は少しずつ笑顔に変わりました。

「智子ちゃん。私の妹。」

里子、泣かせてしまって、ごめんね。そんなつもりは、なかったんだけど。

次の年に、もうひとりの妹が生まれた時、親が私を準備する必要はありませんでした。姉が既に私を訓練してくれたのです。

「愛子ちゃんはね、私たちのかわいい、かわいい妹なのよ。でも、まだ小っちゃいあかちゃんだから、うーんと愛してあげないと。智子、いいお姉ちゃんしてあげてね。」

私は、愛子に泣かされませんでした。(かえって、いじめちゃったかもしれません!)

2 当蔵のストーブ

 


2月は、まだ寒い。


子供のとき、さむ~い朝、天井に映っていたきれいな模様に目覚めたのを覚えている。朝早く、父がストーブに火をつけてくれたのだった。そのため、暖かい部屋で着替えることができた。

あのストーブはべつにスゴイと思わなかったけれど、父が私たちのことを考えて使ってくれたのね。

東日本大震災の時、家族を守ってくれたのがパパ。その後、経済的に色々考えて:株を買ったり、投資してくれたり、沖縄に引っ越しをしてくれた。


普段スゴイと言わないけれど、神様は、家族の安全のことを考えて、斎藤欣也という人を用いてくれたのね。

パパ、ありがとう。そして、誕生日、おめでとう。明日(前のブログで2月1日に書かれたので)が主人の誕生日なの。

3 光の子幼稚園

 


「光の子幼稚園」。小さかったから、あまりよく覚えていないけれど、当蔵の家に住んでいたときに行って、そのときから姉妹と自分の性格が、はっきりと表れ始めていたと、聞いている。

負けず嫌いの妹は、体が小さい、どうせビリになるから運動会は嫌いと行きたがらなかったみたい。

競争心の強い自分は、よーいドンの合図で、レーンを回るのではなく、ゴールテープを目掛けて運動場の真ん中をまっすぐ走ったそうだ。(お遊戯は上手だったの!ほらね!)

あの幼稚園に、青い目のお友達もいた。もちろん、特別プログラム等に両親が来た。幼稚園の先生たちは、姉に、その年のクリスマス・プログラムの英語挨拶を里子にお願いした。当時は、家の会話は全部日本語だったので、英語を一言も話せなかった姉が、何を考えていたのか、それを引き受けてしまった。

でも、姉は小さい時から笑われてもいい、何でもやってみる、(頭がいいから、いつもなんとかなるみたいでした)。それから数週間、母と猛特訓:「サンキュー フォー カミン トウア クリスマス プログラム。ダ ロー ブレスユ。」(私たちのクリスマス・プログラムに来てありがとう。主に祝福されるように。)

やっぱり何とかなった。「ロー ブレシング」(主の祝福)の一つは、下記の形をとった:

(数十年後、シラベ園長先生と奥さんは沖縄離島の石垣島の教会に派遣された。石垣の教会員一人が、島尻清子先生、後に自分の母となる人だった。)

4 こわくない

 

これもこの間のブログに載せた、当蔵時代の話:

* ~ * ~ *

姉が自分のために涙をながしてくれたことを、妹のために、私を準備してくれたことは、既にはなしました。木材のあの当蔵の家に住み着いたシロアリを私たちが怖がらないように、分で羽をもぎ取っ姉は見せてくれました。

これを見た父は、「なんでそんなことするの。」と、聞いたけれど、「おかしなダディー。」と、姉は返事した。「勿論、飛べなくするため。」


次の年のクリスマス、黄色い小さい三輪車のトラックが(いまはあまり見かけないけれど)家に来て、父が後ろから小包をいっぱい下ろしていた。米国のクリスチャンからプレゼントが送られてきたみたい。半分笑いながら、もうシロアリと遊ばなくてもいいよと、父は言った。


え?そうか!おもちゃ!あの変な形の小包の中身は何だろう?楽しみにしていた。パッケージの外側には、自分の名前がちゃんと書いてあった、クリスマスに開けるようにと。人形かな?でも、結構大きい。自分の身長3分の1ぐらい!

クリスマスの朝はウキウキプレゼントを開けて・・・ええ?ヘビのぬいぐるみ?!でもスゴクかわいかったの。(自分のちから不足ではとても描けなかったけれど・・・)。あの大きいぬいぐるみ、大好きになっちゃった。                                   さっき、思ったんだけど、この思い出のためなのかな、今でも蛇が嫌いになれないの。


5 おじいちゃんの黒糖

 

数年前の冬、喉が痛くなった時、主人が黒飴を買ってきて、袋のまま台所のテーブルに置いておいた。よく見ると、なぜか分かった。

その袋を見てもらいたかったみたい。飴の真ん中に使用されたのは、自分が好きだった沖縄の黒糖。

本当のことを言うと、あの黒糖の味というより、離れられないほど好きのは、暖かい思い出の方だけど。

小さい時、寒~い冬に、ナガタおじいちゃんの所に行った。おじいちゃんは、いつも板状の黒糖を小さく割ってあって、孫たちが来ると、


怒ったような、笑ったような声で、「待たんといかんぞ」と、火鉢のアミのはじっこに、それを置いてくれた。少し温めて溶けてくると、「ホイ、今はうまいぞ、だれか食べんかと、」渡してくれた。おじいちゃんがイイというまで、食べちゃダメ、だけど、待ったあとの黒砂糖、最高に美味しかったの、覚えている。

ナガタのおじいちゃんはハワイからだったけど、そこの人の多くは、沖縄からで、ハワイでも砂糖キビ農業が盛んだった。だからナガタおじいちゃんも、黒糖のことは知ってるんだと、自分は納得した。

6 バッシャン!

  「バッシャン!」

「とも子ちゃん(自分の日本語名)、何しているの?」(なごよね子さんの声)

さっきまで、宇堅村のさとうきび畑淵の、はだかの土をけって、全力で走っているつもりでした。一瞬だけ、足元から目を離したら・・・


私は、沖縄によく見る「アダンの木」が大好きでした。さとうきびもいいけど、もし、あのパイナップルのような実がなっていたら最高と、思い、さとうきびの上の方を見ていたため、水路に気づかず、道をまがらないで、そのままドボン。

「とも子ちゃん、何しているの?」標準語で聞かれたから、方言が分からないと、いう言い訳は効かない。

何と言ったか、覚えていない。イヤ、ホント。最近の政治家の多くは、何か都合が悪くなると、すぐ「記憶にありません」と言うけど、この時は、本当に、何と答えたか、覚えていない。(なごさんに聞いてみて。彼女は。分かるかな。)

いまでも、何回、つまんないことを思っているため、変なつまづき方をするのかな。

「あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。あなたの足の道すじに心を配り、あなたの道をかたくさだめよ。」(箴言4:25,26)

7 バスガール

 これも自分が小1の時にあったことです。前のブログに載せた話のひとつです。

* ~ * ~ *

バスターミナルまで来ちゃった。どうしよう。1年生の自分に、何ができる?あ~ん!

「大丈夫?どうしたの。」やさしいおねえさんの声がした。あ!バスガール!(1968年まで、沖縄のバスはワンマン式に変わっていなかった。この話は1965年のことです。)

実は、大謝名でスグおりるつもりでしたと、しゃっくりしながら、優しい声のお姉さんに説明しました。子供バス賃は2セントだったけれど、なぜか、財布に1セントしか見つからなかった(当時はアメリカのドルを使用していた)。だから、払えないので困っていた。

「それでずっと座ったまま、ターミナルまで来たの。」おねえさんは、うなずきました。「分かった。大丈夫。泣くのをやめて、一緒に来なさい。このバス、那覇まで行くから、大謝名に戻れる。どこで降りるか、教えてあげる。」

無事に帰ることが出来ただけでなく、あのおねえさん、自分が見つけた1セントも受け取らなかった!

最近は、「経済的」にいいコンピュータ・ロボットが次々使用されているけれど、効率の悪い(?)バスガール等が働いていた時代に生きていて、良かったなと、時々思ったりする。

1 姉の涙

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